天神が丘の彰功碑

天神が丘の彰功碑(その3)~赤木樟一

彰功碑、3基並んで建立されているうちの一番右の碑、
赤木樟一氏についての彰功碑をご紹介します。

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赤木樟一は赤木雄太郎の長男。明治二十一年(一八八八)生まれ。
氏は盛岡高等農林学校に学び古河林業部に勤務。
昭和二十一年帰郷し、戦後の混乱期以降、地域に貢献した。
西山電燈組合長として昭和二十二年西山に電気を通じさせた。
昭和三十六年建立の彰功碑に、父祖ノ碑ト並列シ永世ニ顕彰ス、とある。

(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木樟一君
君ハ明治廿一年雄太郎氏ノ長男ニ生レ其ノ家ヲ継グ
盛岡高等農林学校ニ林学科ニ学ビ
大正二年古河林業部ニ勤メ在職前後廿八ケ年理事トナル
中途大正十年父ノ死ニ会シ一時帰郷シ卒先自作農ノ創設ニ努ム
昭和廿一年一月西山ニ帰リ当時電燈誘致ノ議アリ
推サレテ西山電燈組合長トナリ更ニ清河内、高野、高岩、簾竹籔、
阿曽毛、加合木ト協調シ点燈方ヲ中国配電会社ニ交渉シ
迂余曲析ヲ経テ其ノ緒ニツク然レドモ終戦直後
未曽有ノ混乱期ニ会シ資材欠乏工事進捗セズ
組合員交互ニ食糧ヲ携エテ大阪ニ出向キ
電線等ヲ入手負担シテ帰ル等百方苦心シ
廿二年八月完成待望ノ文化ノ光各家庭ニ輝キ
老若欽喜セリ又農業協同組合設立中学校新設ニ当リ
土地ノ提供等公共ニ尽サレクル功績多大ナリ
積善ノ家余慶アリトカヤ君古稀ヲ過ギテ尚ホ健在
ソノ崇高ナル人格ト共ニ衆望ノ帰スル所ナリ
茲に相謀リテ石ニ刻シ父祖ノ碑ト並列シ永世ニ顕彰ス

昭和三十六年十一月建之
中国電力株式会社副社長富田匡徳題額
備中町長小田武雌・撰
三浦曲堂書


こちらの”古文訳”は今のところ、ございません。。。



※資料提供;高見 寿先生
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著


掲載:2020.7.10





天神が丘の彰功碑(その2)~赤木雄太郎

彰功碑、3基並んで建立されているうちの真ん中の碑、
赤木雄太郎氏についての彰功碑をご紹介します。

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西山の赤木雄太郎は誠七郎の長男。元治元年(一八六四)生まれ。
大正十四年建立の彰功碑が天神が丘にある。
若くして父の後を受け、村政に従事。
成羽、野馳間の郡道整備、田原橋の新架など多大な功績がある。
碑文の最後に、欲富闔郷規畫成、百般事業試經営、
惜君空作幽冥客、村史長留不朽名、とある。
(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木雄太郎君
君以元治元年十一月生誠七郎君之長男也資性剛健而質
實學渉古今兼通世故壮歳受父之後從事村政専注意于公
益首唱学校改築急無償提供数反歩之土地以挙教育之普
及改善之実早謀地主小作間之圓満協調以防思想界揺動
之源開鑿里道計運輸交通之便就中至脩理神社且増植境
外樹木以企基本財産之増殖再建係焼失寺院脩追福敬神
崇祖之実大挙矣其他尚武会之發展戸主会之組織公設医
師家屋之建築田原橋梁之新架成羽野馳間郡道之編入郵
便局之新設等君之斡旋大與有力此間所投私貲亦不鮮少
可謂積而能散也今後尚待君努力者不少惜哉一朝為二竪
所冒溘焉捐館不得大展驥足齎志空逝哀悼何禁雖然君之
功績炳焉如日星茲村民胥謀欲鐫貞珉以不朽之謹栽二十
八字以代銘曰
欲富闔郷規畫成百般事業試經営
惜君空作幽冥客村史長留不朽名

大正十四年十一月西山建之
長松寺栗部禅巖題額
湯野村長松本大造撰

赤木雄太郎君
君は元治元年一月を以て生れ、誠七郎君の長男なり、
資性剛健質実、学は古今に渉り、兼ねて
世故に通じ、壮歳にして父の後を受け村政に従事す、
専ら意を公益に注ぎ、首として学校改築の急を唱へ、
無償にて数反歩の土地を提供し、以て教育の普及改善の実を挙ぐ、
早く地主小作間の円満協調を謀り、以て思想界動揺の源を防ぎ、
里道を開通して運輸交通の便を計る、
神社を修理し且境外に樹木を増植して基本財産の増殖を企て
焼失の寺院を再建し追福を修め、敬神崇祖の実大いに挙れり。
其他尚武会之発展、戸主会の組織、公設医師家屋の建築、
田原橋梁之新架、成羽野馳間郡道の編入、郵便局之新設等
君の斡旋大いに与って力ありき。
この間私費を投ずる所も亦すくなからず、
積んで而して能く散ずると言う可きなり。
今尚ほ君の努力に待つもの少からず、
惜しい哉、一朝二竪の冒す所となり溘焉として館を捐つ、
大いに驥足を展ばすことを得ずして齎志空しく逝く哀悼何ぞ禁ぜん、
然りと雖も君の功績炳として日星の如し。
茲に村民相謀りて、貞珉に鐫りて以て之を不朽ならしめんと欲す、
謹んで二十八字を栽し、以て銘に代ふ、曰く、
闔郷を富ましめんと欲し、規画なる百般の事業経営を試む、
惜む君は空しく幽冥の客となるを、村史に長く不朽の名を留む。

大正十四年十一月西山之を建つ
長松寺栗部禅巖題額
湯野村長松本大造撰


※資料提供;高見 寿先生
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

次回は、「天神が丘の彰功碑(その3)~赤木樟一」を予定しています。


掲載:2020.6.30





天神が丘の彰功碑(その1)~赤木誠七郎

彰功碑は3基並んで建立されていて1基毎にご紹介します。
「その1」として向かって左端の彰功碑は「赤木誠七郎」氏の碑です。
ご紹介の要領として上段に原文を、下段にはその”古文訳”を掲載しました。
もちろん、それでも読めない文字や意味が不明なこともありますが、
おおよその内容は理解出来るかと思います。

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西山の庄屋赤木氏は、明治以降も傑出した人物を出した。
赤木誠七郎の彰功碑が天神が丘にある。
氏は弘化三年(一八四六)生まれ。
明治新制度の戸長職(村長に相当)に二十年従事した。
碑文の最後に、敬神宗祖以酬國恩、勤励倹節約以養財、
善道垂範郷黨風敦、厥功厥績千載不諼、とある。
大正十四年建立。
(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木誠七郎君
君以弘化三年丙午生于高梁町年甫十七来寓本村実兄平
松為三郎家翌年出襲赤木家爾来執里正之職明治維新之
後尚在戸長之職前後從事村政冶二十年傍営杜康之業家
道益隆盛也君資性温厚而篤實強記衆望之所歸各般之委
員無一不該専以誠愨當事施措得宜不甞空其任企学校改
築以画教育之改善増殖資金以策基礎之堅実開鑿道路墾
闢荒廢以便交通拾遺利等不啻注意于公益所投私貲亦不
鮮少矣而敬神崇祖其最所致力勤倹節約其最所主唱常率
先躬行郷党仰取範風俗日赴淳良亦不外其徳化也君今茲
齢躋八秩矍鑠有凌壮者之概孔聖所謂仁者寿者歟可慶也
真可賀也君自来本村六十餘年于茲不拘其在現職奨否于
陰于陽幇助村治功績不暇條挙茲欲鐫其一斑以不朽之係
銘曰
敬神宗祖以酬國恩勤励倹節約以養財
善道垂範郷黨風敦厥功厥績千載不諼
大正十四年十一月西山建立長松寺栗部禅巌題額
湯野村長松本大造撰

赤木誠七郎君
君は弘化三年に高梁町に生る、
十七才の時本村田原の実兄平松為三郎の家に来る、
翌年西山赤木家の女婿となる、爾来庄屋職を執る、
明治維新の後戸長の職にあり、
前後村政に従事すること殆んど二十年なり。
傍ら酒造業を営み、家運益々盛なり。
君資性温厚にして篤実強記、衆望の帰するところ、
各般の委員一つとして該たらざるなし。
専ら誠心を以て事に当り、挙措宜しき得、嘗て其の任を空しくせず。
学校改築を企て以て教育の改善を画り、
資金を増殖して以て基礎の堅実を策し、
道路を開鑿し荒廃を墾闢し以て交通を便にし、
遺利を拾う等、啻に意を公益に注ぐのみならず、
私財を投ずる所亦少なからざりき、
而して敬神崇祖は其の最も力を致す所、
勤倹節約は其の最も主唱する所、
常に卒先躬行郷党仰いで範をとる、
風俗日に淳良に赴くも亦其の徳化に外ならざる也
君今茲に齢八十に躋り矍鑠とし壮者を凌ぐ概あり。
孔子の所謂仁者は寿なる者か、慶すべきなり、真に賀すべきなり。
君本村に来りしより茲に六十余年、
其の現職に在ると否とに拘らず陰に陽に、
村治を幇助したる功績、条挙するに暇あらず、
茲に其の一斑を鐫りて以て不朽の係とす。
銘に曰く敬神崇祖以て国恩に酬い勤倹節約以て財源を養う
善道範を垂れ郷党風敦し厥の功厥の績千載諼れず

大正十四年一月
西山之を建つ
長松寺栗部禅巌題額
湯野村長松本大造撰


※掲載にあたっては現地及び原文調査、並びに翻訳を進めて来られた『備中町再発見』を執筆出版者でもある高見 寿先生の了解を頂いております。高見先生にはこれらに関する原文を頂きましたことをこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

次回は、「天神が丘の彰功碑(その2)~赤木雄太郎」を予定しています。


掲載:2020.6.26





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