番外編
番外編 昔の西山の軒数・人口はどのくらい?
今から56年前の1965年(昭和40年)、
西山はどれくらいの家があったのかを示す記述がありました。
出典は「備中町史-本編」です。
この当時はまだまだ軒数も人口も多かったのではないかという想像もありますが
各地域別(町内会別)に集計してありました。
あくまでも「地区別年齢別農家人口表」によるもので、次の通りです。
(農業人口となっていますが16歳未満の数も合計に含まれているので、中学生以下の子供も集計されていると思われます)
| 総農家数 | 農業人口 | |
| 高岩・簾竹 | 22 | 119 |
| 麓・小谷 | 13 | 58 |
| 目尾・奈良熊 | 26 | 137 |
| 吉家 | 19 | 77 |
| 六日・二五砂 | 42 | 199 |
| 大蔵・畑谷・畑崎 | 35 | 165 |
| 合計 | 157 | 749 |
※(注意):データーは「備中町史-本編(P.949)」に記載されている1965年「中間農業センサス農家調査結果表」より作成したものである。
ちなみに昭和40年度の西山小学校の児童数は106名、
西山中学校の生徒数は78名です。
なお、更にさかのぼって明治13年の西山村の「村史」よると
戸数155戸、人数は男322人・女318人で合計640人と記載されているようです。
また、興味深い記事として「同族=株内」のことが記載されています。
株内(かぶうち)という言葉はこの数十年、
ほとんど耳にすることも無くなりましたが
確かに昔は使われていた記憶もあります。
山間部の中での生活にはひとつの結束を元に成り立っていて
例えば本家分家においての家同士の繋がりもそうですが
同族同志の結合や血縁の親子兄弟関係はもちろんのこと
養子縁組や師弟関係なども含めた広い範囲での系譜関係を総じて
株内と呼んでいたように思います。
西山における その株内のことも「備中町史」には記載されています。
文章で書かれていますが簡潔にまとめると次のようになります。
ただ明確な戸数、人数については全部が書かれていません。
高岩(17戸);小林株(4)二株に別れる、野村株(3)逸見株(2)渡辺株(2)
吉家(16戸);片岡株(3)、それ以外は単独戸
目尾(19戸);嶋村・谷本・藤井・杉 (それぞれ2戸ずつ)、それ以外は単独戸
小谷( 8戸);すべて単独戸
麓 (16戸);井上株(3)横木株(2)
奈良熊(12);井原株(4)小吹株(2)細川(2)
二五砂(20);嶋村・木原・赤木(それぞれ2戸ずつ)、それ以外は単独戸
六日(不明);丹下株(3)、名越株・植田株・・・・
大蔵(不明);小田株・小坂株・高谷株(それぞれ2戸ずつ)・・・・
※注釈:「備中町史」は昭和39~47年に亘って執筆・編集されたものなので、上記の株内についての数的なものはいつ時点のものかは不明であります。従って「昭和40年、中間農業センサス農家調査結果表」とはかなり異なるものだと思います。
掲載:2021.6.5
番外編 備中町平川の陥没災害
4/15 RSK山陽放送さんより...
イブニングニュース地域を見つめた50年
備中町平川の陥没災害
今から22年前、備中町平川に於いて
大規模な土地の陥没災害が起きました。
山間の静かなこの地区
平川郷地区、現在58世帯94人が住むこの地域を
22年前の春先に襲ったのが広範囲に亘る土地の陥没でありました。
農協の倉庫に直径4.5mもの大きな穴、
多くの場所で地面に亀裂が入り
家屋への被害も次々と明るみに出ました。
被害は集落を流れる下郷川沿いに多く見られました。
頻発する陥没に不安な日々が続きました。
当時、大きな被害を受けた旧農協倉庫があった場所は
今、どうなっているのか。
今も平川郷地区に住み続ける瀬戸川さんに案内してもらいました。
(倉庫は撤去されて更地になり舗装されています・・・)
陥没は平川郷地区の氏神、稲荷神社も直撃しました。
神社が建っていた場所も底が抜け大きな穴が空いたのです。
二ヶ月後にはその穴に神社全体が落ち込みました。
更に陥没発覚半年後の10月には住宅の納屋が倒壊しました。
この年、平川郷地区では15ヶ所が陥没の被害に遭いました。
何故、このような陥没が発生したのか・・・
2000年3月、岡山県の調査委員会は
陥没は平川郷地区に流れる地下水を原因とした自然災害と断定しました。
つまりは地下水が石灰岩の岩盤を溶かしたことで
その上に堆積している土砂が流れ込み陥没したというのです。
その後、国は、備中町の陥没を局地激甚災害に指定しました。
これを受け当時の備中町は平川郷地区のすぐそばにある
山添地区を造成して町営住宅を建設。
被害を受けた人の移転を進めました。
当時この地区に移転してきた今井伸幸さん。
平川郷地区を離れてやっと安心出来る生活に戻れたと言います。
実はこの平川郷地区、今回取材して新たに分かったことがありました。
22年前、大きな穴が空いた旧農協倉庫の直ぐそばの畑に陥没の跡が・・・。
この穴は今月になってから見つかったものだと言うのです。
更に・・・
他の畑でも至る所にくぼみが・・・
こちらは2018年の西日本豪雨のあと、陥没したといいます。
その穴は今でも少しずつ広がって来ています。
高梁市によりますと陥没箇所は今でも年に5~6ヶ所増えているといいます。
高梁市は平川郷地区など併せて8ヶ所、水位計などを取り付け
陥没が起きていないか今でも監視を続けています。
当時、およそ80世帯200人が住んでいた平川郷地区ですが
移転に加え過疎、高齢化で現在は100人を切りました。
今でも陥没の懸念と隣り合わせですが
それでもこの地から離れることなく暮らしている人は数多くいます。
ガソリンスタンドを営む丹正さんもそのひとりです。
Q:
陥没があったから他地域への移転は
丹正さん:
それは思ったことはないです。
Q:
それはどうしてですか。
丹正さん:
どの地域でもいい面はあるけど、悪いところもある。
石灰岩の地域なので陥没を止めることはなかなか難しいと思う。
ただ、ここで暮らす以上は付き合っていくしかない。
今も尚、陥没の不安と隣り合わせの生活が続きます。。。
大規模な陥没災害が起きて22年目の高梁市備中町平川郷地区です。
- 4/15 RSK山陽放送さんより...イブニングニュース地域を見つめた50年 ※Wi-Fi環境をお勧めします
※西山以外でも、思わずおぉっ!!となった記事を「番外編」として掲載します(^^)
掲載:2021.4.16
番外編 トロッコ道跡(田原・成羽)
明治後期~大正初期に成羽川の左岸に整備されたトロッコ道は
吉岡銅山と成羽を結び銅の搬出や
製錬に必要なコークスや木炭が運搬されていました。
三菱の専用道路であったこのトロッコ道、
輸送力は馬車輸送に比べて飛躍的に向上しました!
続きを動画で見て下さい。。。
(KIBIケーブルテレビさんより 「2021.3.25放送 こんにちはニュースキビ」)
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動画にあった、工事中の犠牲者を供養するために岩に「南無妙法蓮華経」の文字を彫った、とする文字岩はこちら ↓
明治末、吹屋の吉岡鉱山が盛況となった。輸送力が不足したため、田原・成羽間にトロッコ軌道の敷設が計画された。明治四十年三月に工事開始し、翌年に開通した。明治四十一年九月、工事請負人水田市太郎は、成羽川左岸市原の岩盤に、南無妙法蓮華経日蓮大士、と彫って犠牲者の供養をした。現存する。
※岡山文庫「備中町再発見」著者 高見 寿先生のTwitterより拝借
田原の平松運送店は、この地方随一の富豪であった。当時田原は交通運送の唯一の機関高瀬舟の終点で、地方物資の集散地であった。平松運送店はそうした物資の取扱店であった。また、吉岡銅山トロッコの終点田原駅の管理も担当した。敷地内に、美保神社と稲荷神社を勧請している。
※岡山文庫「備中町再発見」著者 高見 寿先生のTwitterより拝借
掲載:2021.3.25
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