西山の歴史探訪♬のアーカイブ


#17.番外編 トロッコ道跡(田原・成羽)

明治後期~大正初期に成羽川の左岸に整備されたトロッコ道は
吉岡銅山と成羽を結び銅の搬出や
製錬に必要なコークスや木炭が運搬されていました。

三菱の専用道路であったこのトロッコ道、
輸送力は馬車輸送に比べて飛躍的に向上しました!

続きを動画で見て下さい。。。
(KIBIケーブルテレビさんより 「2021.3.25放送 こんにちはニュースキビ」)



  • 関連記事

    動画にあった、工事中の犠牲者を供養するために岩に「南無妙法蓮華経」の文字を彫った、とする文字岩はこちら ↓

    明治末、吹屋の吉岡鉱山が盛況となった。輸送力が不足したため、田原・成羽間にトロッコ軌道の敷設が計画された。明治四十年三月に工事開始し、翌年に開通した。明治四十一年九月、工事請負人水田市太郎は、成羽川左岸市原の岩盤に、南無妙法蓮華経日蓮大士、と彫って犠牲者の供養をした。現存する。

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    ※岡山文庫「備中町再発見」著者 高見 寿先生のTwitterより拝借

田原の平松運送店は、この地方随一の富豪であった。当時田原は交通運送の唯一の機関高瀬舟の終点で、地方物資の集散地であった。平松運送店はそうした物資の取扱店であった。また、吉岡銅山トロッコの終点田原駅の管理も担当した。敷地内に、美保神社と稲荷神社を勧請している。

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※岡山文庫「備中町再発見」著者 高見 寿先生のTwitterより拝借


掲載:2021.3.25





#16.惣三さま物語り(その7;惣三神社...最期を迎える)

ある時、近くに住んでいた植木家が
そこに惣三郎が隠れ住んでいたことに気づき
不憫(ふびん)に思ったのか
食べ物などを差し入れていた、と伝わっています。

滝の直ぐ横には惣三郎を祀った「惣三(そうだ)神社」があります。

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この神社では食べ物を差し入れていたという
植木家が代々管理を行なっています。

子孫にあたる植木健治さん(現在は故人なので生前中)のお話し;

うちの祖先が惣三郎と言う人が来た時に
家からご飯を持って来てあげていたという話しは
聞いたことがあるんですけど
そうゆうことは植木家は絶やさないと。。。
みんな健康で長生きするよう惣三さんが
面倒を見てくれるという話しは聞いたことがあります。
続く限り子供たちにも、いきさつを話しまして
出来る限り惣三神社を守っていきたいです。


この神社は勝負事に霊剣が有ると言われ
戦前、戦時中は祈願に訪れる多くの参拝があったと言われております。
参拝の際には武具を納める習わしがあって
現在でも長刀(なぎなた)など鉄製の刃の武器などが多く残っています。

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哲西町八鳥(はっとり)にある明本(みょうほん)寺境内にある惣三大権現も
元々ここから勧請(かんじょう)して祀られた、と言われております。

しばらく滝の横穴に隠れていた惣三郎ですが
村人の通報でとうとう捕まり処刑されてしまったと言われています。

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掲載:2021.3.21





#15.もうひとつの「西山小学校校歌」(その5;締めくくり)

締めくくりとして
通常の校歌「西山小学校校歌」を残しておかないといけませんよね。

西山小学校の体育館に掲示されている校歌です。
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※西山小学校閉校記念DVDより

歌詞と譜面はこちらです。(西山中学校...となっていますが共通です)
20210124_校歌
※西山中学校史より


このシリーズ「その2;再現」で「西山小学校 第二校歌」を
ピアノ弾き語りしていただいたピアニスト&作編曲家の
emiglia(エミリア)さんという方に
再びこの「西山小学校校歌」の弾き語りを依頼してみました。
実は前回もそうでしたが今回の弾き語りは有料なんですが
それでもこれほど忠実に再現出来るのかというくらいの
作品になっていますのでお聴き下さい!
本当は作品は4つあるのですが
せっかくなので4つとも掲載します。
大きくは2種類なんですが
ひとつは譜面通りに弾いたピアノ演奏とそれに歌を付けたもの、
もうひとつは実際に学校で歌って来たバージョンのピアノ演奏と
それに歌を付けたもの...2種類×2つ=4つの音源となります。

  • 譜面通りVer.
    • ピアノ演奏

    • 歌つき

  • 学校で歌って来たVer.
    • ピアノ演奏

    • 歌つき



そして実際に子供たちが歌っている校歌がないかなあと思いっていたら
ありました!ありました!!
では最後に子供たちが歌っている動画を掲載しておきます。

~動画~ ※音量にご注意下さい

※西山小学校閉校記念DVDより


お気づきかも分かりませんが
この動画では出だしの部分の
「あさゆう」だったり「れきし」の部分のリズムは
ある程度の年齢の人からすると違和感があります。

具体的には・・・
決してディスるわけではありませんが
「あーさゆーう」「れーきしーを」と動画で歌っていますが
譜面を元に正しくは
「あーさーゆーう」「れーきーしーを」なのです。

長年の歴史の中で、指導者の違い等で変わってきています。
多分、お若い卒業生の方はこれを初めて知ってビックリされるのかな。

あと、テンポも譜面通りだと ♩=120 なので
けっこう早いテンポなのですが
動画では少し遅めになっていますね。
emiglia(エミリア)さんに作っていただいた作品は
そのあたりも忠実に再現していることを補足しておきます。
補足ついでで言いますと
「譜面通りVer.」は多少アレンジも加えていますが主旋律は弾いていません。
一方の「学校で歌って来たVer.」は主旋律を弾いていますし、
いわゆる”学校の先生バージョン”で弾いてもらいました。

コアなお話しになりましたが
いずれにしても「西山小学校校歌」「西山小学校 第二校歌」
共に、いつまでも永遠に・・・ということあります。


掲載:2021.1.31





#14.もうひとつの「西山小学校校歌」(その4;児童による合唱~動画)

「西山小学校 第二校歌」の動画DVDをお見せしたいと思います。

このDVDをいただいたのは加藤浩子校長先生在任時の時だったようで
DVDのプロパティを確認しても
2014年(平成26年)3月...となっています。
(間違いなさそうです!)

ちなみに、この校歌を披露している行事は
毎年冬場に開催していた「西山っ子感謝祭」での一場面のようです。
小学生たちが1年間の成長を地域の方々に見ていただき、
そして、これまで自分たちを見守ってくださって
ありがとうの気持ちを込めた感謝祭です。

余談ですが、この年度は地域の産業のお勉強ということで
私が養鶏の仕事のお話しを子供たちの授業の中でさせて頂く機会があって何かと小学校のほうに出向いていたので、その縁があってこのDVDをいただくことが出来たということを記憶しております。

このシリーズの「その2;再現」でご紹介した
ピアニスト&作編曲家の emiglia(エミリア)さんによる
ピアノ弾き語りの音源と比べながらご覧頂くとより一層面白いと思います。

児童のみなさん、歌詞を見なくて歌っていますよね。
すごいと思いました!!
それだけ、かなり練習をしてきたんだということが分かります。



~動画~ ※音量にご注意下さい



そして次回はいよいよこのシリーズ『もうひとつの「西山小学校校歌」』も締めくくりの予定です。
締めくくりにふさわしい内容を企画したいと思っていますのでお楽しみにして下さい。


掲載:2021.1.24





#13.もうひとつの「西山小学校校歌」(その3;作者の想い)

「西山小学校 第二校歌」を作った方は
市村 榮(いちむら さかえ)先生と言って
西山ご出身の”文学家”でいらっしゃいます。
ひと言で”文学家”とご紹介するのも大変失礼かと思いますが
とても沢山の肩書きをお持ちの方なのです。
日本大学卒業~東京教育大学附属聾学校教諭~(中略)
全国聾学校長会会長はじめ数々の会長を歴任され
東京都知事表彰(教育功労)
文部大臣表彰(教育功労)
勲四等受賞(教育功労)等々を受賞。。。
著書も多数あります。

そんな市村 榮先生のたくさんの文献、書物の中で
故郷 西山に絶えず心を寄せて書かれた本で
『千六百年の西山高原の里の歴史と物語』があります。

その本の中で「西山小学校 第二校歌」に対する
想いが書かれてありますのでご紹介します。

第二校歌を作った理由・・・
現在、悲しい事件などが毎日のように起こっていて
隣人も学校も親子でさえも心から安心したり
信頼出来ない世相となっているので
あまり窮屈でなく少しでも明るい気持ちで
歌える第二校歌があってもいいのではないか
という気持ちになり気軽に歌える歌を、
西山高原の里の自然環境や土地柄や小学校が
いつまでも栄えていて欲しいという願いと想いで作ったそうです。

  • 引用&抜粋;市村 榮 著書『千六百年の西山高原の里の歴史と物語』より


その「西山小学校 第二校歌」ですが
前回の「もうひとつの「西山小学校校歌」(その1;発見)」の時に
まだ小学校があった頃、教職員さんから
児童が歌った音源の入ったCDをいただいたことがあって
そのCDはいつしか紛失してしまった・・・旨の記述をしました。

と こ ろ が !!

実は、なんと、
そのCDはひょっとしたらどこかにあるんじゃないかと思い、
ちゃんと探してみたら・・・
ありました! 見つかりました!!

し か も !!

それは音源ではなくて
動画として保存されたものだったのです!

じゃじゃ~ん!!
👏👏👏👏👏👏👏👏


次回はシリーズもうひとつの「西山小学校校歌」その4として
その歌唱している動画をアップしてみたいと思いますので
乞うご期待を!!
(もったいぶって、スミマセン😅)


掲載:2021.1.19





#12.もうひとつの「西山小学校校歌」(その2;再現)

前回、「西山小学校 第二校歌」の存在をお知らせしましたが
いかがだったでしょうか?

その最後の締めくくり部分に

『みなさんにどうしても聴いていただきたくて、
密かにある作業を進めておりますので、
どうなるか分かりませんが(笑)...乞うご期待を!!』と書きました。

実は同時進行であることを進めていたのですが
なんと!その翌日である本日、そのことが完成したので
みなさんにご披露したいと思います。

もうお分かりですよね!
この「西山小学校 第二校歌」を”再現”することが出来たのです。

これはピアノの弾き語りをピアニスト&作編曲家の
emiglia(エミリア)さんという方に依頼して実現したものです。

”遠く離れていても故郷 西山を忘れないで”
”後世に西山小学校第二校歌を遺したい!”という
私の想いを受けてemiglia(エミリア)さんは
心を込めてやって下さいました。

原曲がなく、ただ歌詞とコード譜だけをお渡ししたのがつい昨日のこと。
その翌日にmp3ファイルとしていただくことが出来たのです。
前奏、間奏なども含めて校歌っぽくアレンジされて
そして歌い方もまるで小学校の先生が歌ってるかのように
澄んだ伸びのある艶やかな歌声は西山の情景が目に浮かぶような
そんな”校歌”に仕上がっていますので是非、お聴き下さい。
あと、emiglia(エミリア)さん、ピアノ伴奏の音源も下さいました。
何かに活用出来るといいなあ~





西山小学校 第二校歌

作詞 市村  榮
作曲 相良土道子

1.
吉備の山道 踏み越えて
西山(にしのやま)の高原(たかはら)に
東に小富士 あおぎ見る
ああ ああ 我が学びの
校舎(いらか)は そびえたつ

2.
12(とに)の郷(さと)の 縁(きずな)深く
古き歴史を 尋ねきて
ひとつに学ぶ 顔と顔
ああ ああ 我が学びの
古里(とわ)の 西山校

※歌詞拝借;ブログ「荒野をわたる風」のブロガー えせんにん様より(許可くださりありがとうございます!)


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※撮影;昭和42年


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※撮影;2015.10.17




掲載:2021.1.17





#11.もうひとつの「西山小学校校歌」(その1;発見)

今回は「惣三さま物語り」はひとまずお休みとして
5年前にタイムスリップしますね!


タイトル通り西山小学校には校歌がもうひとつありました!

ご存知の方もまあまあ、いらっしゃるかと思います。
ご存知でない方、けっこういらっしゃるかと。。。

西山小学校は今から5年前の2016年3月に閉校となりました。
もう5年が経つんですね!!

その西山小学校にはもちろん校歌はありますし
隣接していた西山中学校の校歌と共通でした。

西山小学校(中学校)の校歌(インストゥルメンタル)はこちら・・・
※音量にご注意下さい



今回、ご紹介するのがもうひとつの校歌...
校歌のタイトルも「西山小学校 第二校歌」となっています。

私も小学校がある時に教職員さんから初めて教えていただき
その”存在”を知ることとなりました。
A4サイズの紙に歌詞と譜面が印刷されたものと併せて
CDにその歌が入った音源データも頂いたことがあります。
音源データには小学校の児童が歌った校歌だったと記憶しています。

実はあろうことか、その両方とも紛失しているようで
いくら探しても見付かりません。。。
あの当時、、、今から十数年前ぐらいに親切に下さった先生、
本当にごめんなさい!って感じです。

そんなこともありましたが
その「西山小学校 第二校歌」というのはこちらです。

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※情報&画像提供;ブログ「荒野をわたる風」のブロガー えせんにん様より(許可くださりありがとうございます!)


市村 榮(いちむら さかえ)先生は
西山ご出身の”文学家”でいらっしゃいます。
たくさんの文献、書物などの筆者でもあり、
ひとえに故郷 西山に絶えず心を寄せていらっしゃる方であります。
えせんにん様のブログによりますと
自分の生まれ育った西山の地を愛し過ぎて、第二校歌を作った...
確かにその通りだと容易に推測出来ます。

尚、この第二校歌の音源をお持ちの方、
もしよかったらご連絡をお待ちしております。
連絡先⇒ こちら

そして、みなさんにどうしても聴いていただきたくて、
密かにある作業を進めておりますので、
どうなるか分かりませんが(笑)...乞うご期待を!!



掲載:2021.1.16





#10.惣三さま物語り(その6;追っ手が迫る)

しばらく西山の麓にある京屋敷に住んでいたとされる惣三郎ですが
その後、追っ手を逃れる為、
ここから畝(うね)伝いに逃げたと伝わっています。

惣三郎は山を滑り降り小谷(こだに)川に出て川を下ります。

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そして沢を登って行ったとされています。


しばらく登ると小さな滝を見つけます。


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その滝の横には大岩があり、その下に穴を見つけ
そこに身を隠していたと伝わっています。

山奥で道は険しく隠れるのには
打って付けの場所だったのでしょう。

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ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋



掲載:2021.1.2





#09.惣三さま物語り(その5;西山へ逃亡)

備中町西山へ逃げて来た惣三郎が門を叩いたのは
赤木家であったとされています。

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赤木家は鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)以降、
備中の国、川上郡穴田(あなだ)郷(現在の高梁市宇治町穴田)で
地頭を務めていた赤木氏の流れをくむ家系です。

備中町史によれば赤木家は
享禄年間(きょうろくねんかん)(1528年から1531年までの期間)
以前に西山に移り享禄元年(1528年)、
菩提寺として長松寺を建立したとされています。

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また西山には山城、西山城があり
代々、城主として赤木家が務め
その後、江戸時代には庄屋を務めていたとされています。

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西山の地で惣三郎が最初に訪れたとされる赤木家では
今でも裏山に惣三郎を祀る祠が建っています。

元々は赤木家で惣三大権現を神社として祀っていたものですが
昭和29年に火災で焼失し、現在は祠を建てて祀っています。

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赤木家の子孫、赤木平八郞氏の談話・・・

私の方の家が西山という地に入った
最初の家じゃないかと思っております。
ちょうどその当時の私方の家の当主(赤木助兵衛)
というのが初代の庄屋さんであり
また長松寺の開基壇頭ということで
庵(いおり)を持っていた訳であります。
その庵(いおり)というのは
赤木一族が宇治(高梁市)から攻めてきた時に
西山城という城を攻めて来た訳なんですけど、
その西山城の下に庵(いおり)をこしらえたことで
開山さん(最初にお寺をこしらえた人)にしたと思うんですけど、
そこに家があったと思うんですけど
その家に”手引き”したのではないかという言い伝え等があります。



赤木家は惣三郎が二条家の家臣ということで手厚く迎入れ
西山の麓にある別棟に住まわせたと伝えられています。

現在その場所には惣三郎を祀る祠と
墓のようなものが建っています。

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この地は惣三郎が住んでいたからか
いつしか「京屋敷」と呼ばれるようになり
現在でも地元ではそう呼ばれるようになっています。
祠の横には惣三郎の墓らしきものが建てられています。

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ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋



  • 京屋敷、おおよその場所・・・

麓の防火水槽(←県道313=大野部備中線沿い)の脇を目安に南方向に藪の中を50~100mほど降りたあたりにあります。
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余談になりますが
この「京屋敷(きょうやしき)」以外にも
小字名が「京免(きょうめん)」とよばれる場所が西山にはあります。
人から聞いた話しでは「京(京都)」から年貢などを免じてもらった土地...
ゆえに「京免(きょうめん)」と名前が付いたとの説があることを聞いたことがあります。

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それから、興味深い話しとして・・・
この画像の青色で囲った部分は哲西町下野部(しものべ)と呼ばれる地域です。
つまり、二条家の岡山拠点となっていた地域です。
また、赤色で小さく丸を記した場所は「ロン山(ろんざん)」と呼ばれている山です。
たまたま丸印の大きさが小さかっただけでけっこう大きな山です。
正式には長松寺山です。
地図にもこの「ロン山(ろんざん)」という名称は記されていません。
実はこの「ロン山(ろんざん)」ですが
人によれば、「ロン山(ろんざん)」⇒「論山(ろんざん)」ではなかろうか?という説もあります。

つまり、これらをまとめますと、
下野部を拠点にして年貢の取りまとめの仕事をしていた
京都の二条家はおそらく備中町の一部も管轄していたのでは?
(←あくまでも、私の想像ですが)

その時に「京免(きょうめん)」と呼ばれる土地も”生まれ”たり、、、、
そんなことを話し合っていたのが
「論山(ろんざん)」という場所だったという!?・・・。
実は「論山(ろんざん)」の由来は
別な場所を論じたという有力な説があるので、
そのあたりはまた別の機会にご紹介します。

ちなみに前述の「京免」ですが
哲西町下野部(二条家)から西山に向かっての途中にあり、
「ロン山(ろんざん)」の麓あたりに位置します。

長々となりましたが、
地域の歴史って奥が深いのを実感しております



掲載:2020.12.27





#08.惣三さま物語り(その4;追われる身に)

惣三郎は正義感の溢れる人なので地元のお百姓さんの味方をして
年貢を幾らかでも少なくしてあげるような話しを
京都のほうで役人同士でしている時、
お百姓さんへの正義感から相手の役人と喧嘩をして、
つい切りつけて殺してしまった。

追われる身になった惣三郎は、よそへ行かずに
はじめから二条殿(新見市哲西町下野部)を目当てに
逃げ戻って来たのかもしれません。

下野部の鹿室(かむろ)さん宅の裏山には
誰が建てたかは不明ですが惣三郎を祀る祠があるそうです。

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村人の為に追われる身となった惣三郎を
下野部の人たちはかくまっていたのかもしれません。

その後、追っ手が迫って来たのか
惣三郎は隣接する高梁市備中町西山に逃げたと伝わっています。

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山を越え、備中町西山へ逃げて来た惣三郎は
当時、庄屋をしていた赤木家の門を叩いたと伝わっています。

ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋


掲載:2020.12.19





#07.惣三さま物語り(その3;人物像)

惣三(そうだ)さまこと、惣三郎(そうざぶろう)とは
どんな人物だったのか。。。

哲西町下野部には、昔、朝廷に仕える京都の公家、
二条家の荘園領地でした。

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※哲西町下野部

二条家とは、藤原氏直系の公家で
その中の最高位と言われる5摂家のひとつ。
下野部地内の二条山には二条殿跡と呼ばれる屋敷跡が残っています。
この屋敷跡は新見市指定重要文化財に指定されています。(昭和53年9月11日指定)

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※下野部地内の二条山の全景

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※二条殿跡(屋敷跡)がある二条山

山中には屋敷が建っていたと思われる郭(くるわ)や
敵の侵入に備えた急斜面の防護設備など
山城のような跡も見られるそうです。

頂上には山城で言う本丸のような跡もあり、
そこには小さな祠があります。

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※山城に祀られている小さな祠

この祠は二条さんと呼ばれ元弘2年から、
ここで4年間生活したと伝えられる
二条為明(1295~1364)を祀ったものと言われています。

二条氏は和歌の達人で宮中の和歌の宴に召されることが多かったため
北条氏を滅ぼそうと企む後醍醐天皇の仲間とみられ
後醍醐天皇が隠岐へ流される際に二条氏も
土佐へ島流しとなったそうです。
二条家を拠点にこの地の政治を行っていたのでしょう。

哲西地域に残る伝承によると、
その時、下野部にあった育野城の城主、
斉藤景宗を頼り下野部へ移ったとされています。
その際、景宗が仮殿を建て二条為明を住まわせたと言われ
それが二条殿跡と伝わっております。

二条為明がこの地に来たというのはあくまで伝承ですが
哲西史(角川日本地名大辞典-岡山県)によると
慶長四年(1599年)毛利輝元が検地を行った際、
大野部村から下大野部村を分村し二条家に献上した書かれ、
室町時代はこの地が確かに二条家の領地であったことがわかります。

二条家跡の脇には二条家の役人たちのものと思われる
五輪塔が数多く残っています。
二条殿を拠点に後の政治を行っていたのでしょう。
その二条殿の家臣として年貢の取り立てなど
この地で働いていたとされるのが惣三郎です。

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※二条家跡の脇に残っている数多くの五輪塔

ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋


掲載:2020.11.29





#06.惣三さま物語り(その2;概要)

西山の長松寺に祀ってある「惣三(そうだ)さま」。
正しくは「惣三郎(そうざぶろう)」と言われます。
愛着と尊厳の念を以て惣三(そうだ)さまと
呼ばれるようになったのでしょう。

今回は、惣三さまとは
如何なる人物だったのかを簡単にご紹介します。

下大野部村が二条家の領地であったころ。
京都でケンカした惣三郎は、追われて西山に逃れ、
立木(地名)の岩穴に隠れ住んでいた。
地元の人が食事を与えてかくまったが、
ついに捕えられ処刑された。
その洞窟は大きな平たい石の下で、奥行き五mくらいある。
ついに捕えられ処刑された。
長松寺の墓碑に「青峯護山庵主惣三郎」とある。
戦前、戦中は徴兵除け、武運長久を祈願した。
祈願のとき、女装して参ると霊験あらたかであるとされた。

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(著書『備中町再発見』でも知られる高見 寿先生のTwitterより拝借)



下大野部(しもおおのべ)村とは現在の新見市哲西町大野部。
その前は岡山県哲多郡に属し、
哲多郡下大野部村(のちに大野部村に合併)。。。


立木(たちき)の岩穴とはこちら ↓です。
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※画像高見 寿先生より提供

この岩穴はもちろん現存していますが、
幾度となる台風や大雨、洪水により
周辺の石や土砂が流れ込んで岩穴の大部分が埋まってしまい
その全景を見ることは出来ませんが
それでも当時の様子を想像するには充分な状況です。


そして長松寺の墓碑「青峯護山庵主惣三郎」とはこちら ↓
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掲載:2020.9.1





#05.惣三さま物語り(その1;プロローグ)

西山には惣三(そうだ)さまと呼ばれる人物を祀っている場所があります。

そのうちのひとつが長松寺(ちょうしょうじ)です。
長松寺境内の西側には立派な拝殿と
それをしっかりとお守りするように建物(鎮守殿)も建っています。

そもそも、惣三さまとは如何なる人物だったのか。
西山にどのような影響を与えた人物だったのかを
少しずつご紹介して参ります。

鎮守殿には惣三さまに関することを書かれた看板もあります。


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掲載:2020.8.17





#04.天神が丘の彰功碑(その3)~赤木樟一

彰功碑、3基並んで建立されているうちの一番右の碑、
赤木樟一氏についての彰功碑をご紹介します。

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赤木樟一は赤木雄太郎の長男。明治二十一年(一八八八)生まれ。
氏は盛岡高等農林学校に学び古河林業部に勤務。
昭和二十一年帰郷し、戦後の混乱期以降、地域に貢献した。
西山電燈組合長として昭和二十二年西山に電気を通じさせた。
昭和三十六年建立の彰功碑に、父祖ノ碑ト並列シ永世ニ顕彰ス、とある。

(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木樟一君
君ハ明治廿一年雄太郎氏ノ長男ニ生レ其ノ家ヲ継グ
盛岡高等農林学校ニ林学科ニ学ビ
大正二年古河林業部ニ勤メ在職前後廿八ケ年理事トナル
中途大正十年父ノ死ニ会シ一時帰郷シ卒先自作農ノ創設ニ努ム
昭和廿一年一月西山ニ帰リ当時電燈誘致ノ議アリ
推サレテ西山電燈組合長トナリ更ニ清河内、高野、高岩、簾竹籔、
阿曽毛、加合木ト協調シ点燈方ヲ中国配電会社ニ交渉シ
迂余曲析ヲ経テ其ノ緒ニツク然レドモ終戦直後
未曽有ノ混乱期ニ会シ資材欠乏工事進捗セズ
組合員交互ニ食糧ヲ携エテ大阪ニ出向キ
電線等ヲ入手負担シテ帰ル等百方苦心シ
廿二年八月完成待望ノ文化ノ光各家庭ニ輝キ
老若欽喜セリ又農業協同組合設立中学校新設ニ当リ
土地ノ提供等公共ニ尽サレクル功績多大ナリ
積善ノ家余慶アリトカヤ君古稀ヲ過ギテ尚ホ健在
ソノ崇高ナル人格ト共ニ衆望ノ帰スル所ナリ
茲に相謀リテ石ニ刻シ父祖ノ碑ト並列シ永世ニ顕彰ス

昭和三十六年十一月建之
中国電力株式会社副社長富田匡徳題額
備中町長小田武雌・撰
三浦曲堂書


こちらの”古文訳”は今のところ、ございません。。。



※資料提供;高見 寿先生
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

次回は、「惣三さま物語り(その1)」を予定しています。


掲載:2020.7.10





#03.天神が丘の彰功碑(その2)~赤木雄太郎

彰功碑、3基並んで建立されているうちの真ん中の碑、
赤木雄太郎氏についての彰功碑をご紹介します。

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西山の赤木雄太郎は誠七郎の長男。元治元年(一八六四)生まれ。
大正十四年建立の彰功碑が天神が丘にある。
若くして父の後を受け、村政に従事。
成羽、野馳間の郡道整備、田原橋の新架など多大な功績がある。
碑文の最後に、欲富闔郷規畫成、百般事業試經営、
惜君空作幽冥客、村史長留不朽名、とある。
(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木雄太郎君
君以元治元年十一月生誠七郎君之長男也資性剛健而質
實學渉古今兼通世故壮歳受父之後從事村政専注意于公
益首唱学校改築急無償提供数反歩之土地以挙教育之普
及改善之実早謀地主小作間之圓満協調以防思想界揺動
之源開鑿里道計運輸交通之便就中至脩理神社且増植境
外樹木以企基本財産之増殖再建係焼失寺院脩追福敬神
崇祖之実大挙矣其他尚武会之發展戸主会之組織公設医
師家屋之建築田原橋梁之新架成羽野馳間郡道之編入郵
便局之新設等君之斡旋大與有力此間所投私貲亦不鮮少
可謂積而能散也今後尚待君努力者不少惜哉一朝為二竪
所冒溘焉捐館不得大展驥足齎志空逝哀悼何禁雖然君之
功績炳焉如日星茲村民胥謀欲鐫貞珉以不朽之謹栽二十
八字以代銘曰
欲富闔郷規畫成百般事業試經営
惜君空作幽冥客村史長留不朽名

大正十四年十一月西山建之
長松寺栗部禅巖題額
湯野村長松本大造撰

赤木雄太郎君
君は元治元年一月を以て生れ、誠七郎君の長男なり、
資性剛健質実、学は古今に渉り、兼ねて
世故に通じ、壮歳にして父の後を受け村政に従事す、
専ら意を公益に注ぎ、首として学校改築の急を唱へ、
無償にて数反歩の土地を提供し、以て教育の普及改善の実を挙ぐ、
早く地主小作間の円満協調を謀り、以て思想界動揺の源を防ぎ、
里道を開通して運輸交通の便を計る、
神社を修理し且境外に樹木を増植して基本財産の増殖を企て
焼失の寺院を再建し追福を修め、敬神崇祖の実大いに挙れり。
其他尚武会之発展、戸主会の組織、公設医師家屋の建築、
田原橋梁之新架、成羽野馳間郡道の編入、郵便局之新設等
君の斡旋大いに与って力ありき。
この間私費を投ずる所も亦すくなからず、
積んで而して能く散ずると言う可きなり。
今尚ほ君の努力に待つもの少からず、
惜しい哉、一朝二竪の冒す所となり溘焉として館を捐つ、
大いに驥足を展ばすことを得ずして齎志空しく逝く哀悼何ぞ禁ぜん、
然りと雖も君の功績炳として日星の如し。
茲に村民相謀りて、貞珉に鐫りて以て之を不朽ならしめんと欲す、
謹んで二十八字を栽し、以て銘に代ふ、曰く、
闔郷を富ましめんと欲し、規画なる百般の事業経営を試む、
惜む君は空しく幽冥の客となるを、村史に長く不朽の名を留む。

大正十四年十一月西山之を建つ
長松寺栗部禅巖題額
湯野村長松本大造撰


※資料提供;高見 寿先生
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

次回は、「天神が丘の彰功碑(その3)~赤木樟一」を予定しています。


掲載:2020.6.30





#02.天神が丘の彰功碑(その1)~赤木誠七郎

彰功碑は3基並んで建立されていて1基毎にご紹介します。
「その1」として向かって左端の彰功碑は「赤木誠七郎」氏の碑です。
ご紹介の要領として上段に原文を、下段にはその”古文訳”を掲載しました。
もちろん、それでも読めない文字や意味が不明なこともありますが、
おおよその内容は理解出来るかと思います。

2020062601彰功碑01_R

西山の庄屋赤木氏は、明治以降も傑出した人物を出した。
赤木誠七郎の彰功碑が天神が丘にある。
氏は弘化三年(一八四六)生まれ。
明治新制度の戸長職(村長に相当)に二十年従事した。
碑文の最後に、敬神宗祖以酬國恩、勤励倹節約以養財、
善道垂範郷黨風敦、厥功厥績千載不諼、とある。
大正十四年建立。
(注釈と、この下の画像は高見 寿先生のTwitterより拝借しました)
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赤木誠七郎君
君以弘化三年丙午生于高梁町年甫十七来寓本村実兄平
松為三郎家翌年出襲赤木家爾来執里正之職明治維新之
後尚在戸長之職前後從事村政冶二十年傍営杜康之業家
道益隆盛也君資性温厚而篤實強記衆望之所歸各般之委
員無一不該専以誠愨當事施措得宜不甞空其任企学校改
築以画教育之改善増殖資金以策基礎之堅実開鑿道路墾
闢荒廢以便交通拾遺利等不啻注意于公益所投私貲亦不
鮮少矣而敬神崇祖其最所致力勤倹節約其最所主唱常率
先躬行郷党仰取範風俗日赴淳良亦不外其徳化也君今茲
齢躋八秩矍鑠有凌壮者之概孔聖所謂仁者寿者歟可慶也
真可賀也君自来本村六十餘年于茲不拘其在現職奨否于
陰于陽幇助村治功績不暇條挙茲欲鐫其一斑以不朽之係
銘曰
敬神宗祖以酬國恩勤励倹節約以養財
善道垂範郷黨風敦厥功厥績千載不諼
大正十四年十一月西山建立長松寺栗部禅巌題額
湯野村長松本大造撰

赤木誠七郎君
君は弘化三年に高梁町に生る、
十七才の時本村田原の実兄平松為三郎の家に来る、
翌年西山赤木家の女婿となる、爾来庄屋職を執る、
明治維新の後戸長の職にあり、
前後村政に従事すること殆んど二十年なり。
傍ら酒造業を営み、家運益々盛なり。
君資性温厚にして篤実強記、衆望の帰するところ、
各般の委員一つとして該たらざるなし。
専ら誠心を以て事に当り、挙措宜しき得、嘗て其の任を空しくせず。
学校改築を企て以て教育の改善を画り、
資金を増殖して以て基礎の堅実を策し、
道路を開鑿し荒廃を墾闢し以て交通を便にし、
遺利を拾う等、啻に意を公益に注ぐのみならず、
私財を投ずる所亦少なからざりき、
而して敬神崇祖は其の最も力を致す所、
勤倹節約は其の最も主唱する所、
常に卒先躬行郷党仰いで範をとる、
風俗日に淳良に赴くも亦其の徳化に外ならざる也
君今茲に齢八十に躋り矍鑠とし壮者を凌ぐ概あり。
孔子の所謂仁者は寿なる者か、慶すべきなり、真に賀すべきなり。
君本村に来りしより茲に六十余年、
其の現職に在ると否とに拘らず陰に陽に、
村治を幇助したる功績、条挙するに暇あらず、
茲に其の一斑を鐫りて以て不朽の係とす。
銘に曰く敬神崇祖以て国恩に酬い勤倹節約以て財源を養う
善道範を垂れ郷党風敦し厥の功厥の績千載諼れず

大正十四年一月
西山之を建つ
長松寺栗部禅巌題額
湯野村長松本大造撰


※掲載にあたっては現地及び原文調査、並びに翻訳を進めて来られた『備中町再発見』を執筆出版者でもある高見 寿先生の了解を頂いております。高見先生にはこれらに関する原文を頂きましたことをこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

次回は、「天神が丘の彰功碑(その2)~赤木雄太郎」を予定しています。


掲載:2020.6.26





#01.風致園

西山の中心地には六日(むいか)と呼ばれる小集落が有り、そこには既に閉校となりましたが小学校や中学校があったり、郵便局があったり、コミュニティハウス西山荘と呼ばれる憩いの場・みんなが集まれる施設(高梁市指定の災害時の避難所)など...まさに地域の中心地としての役割的な建物があります。
そして旧西山小学校の裏側には一見、古墳を思わせるような風致園と呼ばれる小さな丘があります。別名として「西山天神が丘」とも言われています。
元々は古瀬田(こせた)と屋号を持つ、西山では江戸時代から代々に亘って庄屋として、今でいう処の”地域おこし””事業発起”としてとても大きな役割と功績を残してきたもので、その古瀬田(赤木樟一氏)の庭園でありました。
その風致園には菅原道真公を祀った小さい祠があることから天神祠と呼ばれるようになり古瀬田も宅神として祀られていたとのことです。

※参考文献;『備中町再発見』高見 寿著 /『備中町の名所』高見格一郎著

風致園に菅原道真公を祀ってある天神祠(左)、3基の彰功碑(右)
画像の中央には「高山(たかやま)」が雄大に見えてます。
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古瀬田(こせた)と屋号を持つ庄屋の建物は
傷みは激しいものの、今なお現存しています。
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今回、「西山の歴史探訪」として第一回目をお届けしました。
これまで通り不定期ですが今後、この「西山の歴史探訪」をシリーズ化して掲載していく予定です。
画像は出来るだけ現在のものを、そして古い画像も手元にあるものに限りますが有効に使っていきたいと考えています。
どうぞお楽しみに😉👋
次回は、「天神が丘の彰功碑」を予定しています。


掲載:2020.6.16






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