惣三さま物語り

惣三さま物語り(その9;地域に残る惣三郎伝説)

戦前、戦時中に大流行した民間信仰ですが
現在では惣三さん信仰も惣三郎伝説も
知る人が少なくなっています。

備中町史には惣三さまとして
民間信仰の流行神として記されていますが
惣三郎の人格までは触れていません。

地域の伝承では一説に、村人に賭博を広めいかさまを使い
いつも惣三郎が勝っていたため、
勝負の神様として祀られたという悪人説もあったそうですが
現在では確認出来ません。

  • 哲西町八鳥(はっとり)にある明本(みょうほん)寺境内にある惣三大権現

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初代庄屋の子孫、赤木さんは
惣三郎の人柄について、こう話します。

赤木平八郞さんのお話し・・・

推定なんですけど、
おそらく西山の地が惣三郎という人に対して
非常に尊敬をしておったのではないか。
人間の偉大さがあったのではないかと思っております。
それだけに一目瞭然、
たとえそんな、いざこざがあったのが分かっていても
それでもかばえる程の
包容力のある人ではなかったのかなと思っております。
ただ、これは私の個人的な見解ですけど。


惣三郎伝説はあくまでも地域に伝わる伝承で
資料などが残っているわけではありません。

しかし、一時期、民間信仰として大流行し
多くの参拝があったことは確かです。


  • 明本寺惣三大権現の祭壇

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明本寺総代長 渡邉日三吉さんのお話し・・・

こちらの住職さんと相談しながら守っていってるんですが
地域の人も惣三さまというのは
こうして看板も作ったりしているので
ここへお参りの人はみんなこれからも守ってくれると思いますし
ここの寺が出来てからはこうしてずっと守ってきたので
私らの次の時代もこれは守っていきたいなあと思っております。


地域に残る惣三郎伝説、
これからも語り継がれて行って欲しいものです。

「惣三さま物語り」は、これにて終了と致します。

また時期をおいて違う角度から見た「(仮称)惣三さま伝説」を考えております。


掲載:2021.4.24





惣三さま物語り(その8;惣三郎を祀った墓、惣三権現、祠)

備中町西山にある長松寺、
赤木氏が菩提寺として
享禄元年(1528年)に建てたと言われる寺です。

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ここの墓地に惣三郎のものとして伝わる墓があります。

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石碑には年号はありませんが
正月廿八日(1月28日)、、、
戒名と惣三郎の文字が刻まれています。

  • 関連記事

    長松寺墓地の一角に祀られている惣三郎の墓石の解説 ↓

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    京都でケンカをして、相手を斬ったため追われた惣三郎という人物が、西山に逃げてきて小谷の岩穴に隠れ住んだ。ついに捕えられ、処刑された。西山の長松寺にあるその墓。青峯護山菴主、正月廿八日、俗名惣三郎。年号は記されていない。別の資料によると、これは、延宝九年(一六八一)酉正月のこと。

    ※岡山文庫「備中町再発見」著者 高見 寿先生のTwitterより拝借






また境内には小谷の立木から勧請した惣三権現が祀られています。

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願い人(びと)の一代にひとつ、
何か叶えて死んでやると言って死んだ惣三郎、
何か願い事をすれば必ず叶えられるという噂が広まり
特に戦前、戦時中は小谷の惣三神社、
哲西町-明本寺の惣三大権現、
そして長松寺の惣三権現には多くの参拝があったと言われております。

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また流行神(はやりがみ)的に信仰を集め
遠くは鳥取や島根からも参拝があったと言われ
備中町史には真意は明らかではないが
多くの分社が存在した、という内容が書かれています。



哲多町蚊家(こうのいえ)、
ここにも惣三郎を祀った祠(ほこら)があります。

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この地域で祠を守っている見高暢雄(みたかながお)さんのお話し;

明治21年の長松寺の火災の時に
ここ(哲多町蚊家)へ御札が
飛んで来て落ちていたということで
社を建ててお祀りしているということです。
戦後、盆踊りが盛んな頃は
ここでもかなりの人数でやられていたということらしいです。
今と同じような状態でずっとこの祠を
守っていって欲しいという希望はあります。



次回、惣三さま物語り(その9)は、いよいよ最終回となります


掲載:2021.4.8





惣三さま物語り(その7;惣三神社...最期を迎える)

ある時、近くに住んでいた植木家が
そこに惣三郎が隠れ住んでいたことに気づき
不憫(ふびん)に思ったのか
食べ物などを差し入れていた、と伝わっています。

滝の直ぐ横には惣三郎を祀った「惣三(そうざ)神社」があります。

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この神社では食べ物を差し入れていたという
植木家が代々管理を行なっています。

子孫にあたる植木健治さん(現在は故人なので生前中)のお話し;

うちの祖先が惣三郎と言う人が来た時に
家からご飯を持って来てあげていたという話しは
聞いたことがあるんですけど
そうゆうことは植木家は絶やさないと。。。
みんな健康で長生きするよう惣三さんが
面倒を見てくれるという話しは聞いたことがあります。
続く限り子供たちにも、いきさつを話しまして
出来る限り惣三神社を守っていきたいです。


この神社は勝負事に霊剣が有ると言われ
戦前、戦時中は祈願に訪れる多くの参拝があったと言われております。
参拝の際には武具を納める習わしがあって
現在でも長刀(なぎなた)など鉄製の刃の武器などが多く残っています。

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哲西町八鳥(はっとり)にある明本(みょうほん)寺境内にある惣三大権現も
元々ここから勧請(かんじょう)して祀られた、と言われております。

しばらく滝の横穴に隠れていた惣三郎ですが
村人の通報でとうとう捕まり処刑されてしまったと言われています。

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掲載:2021.3.21





惣三さま物語り(その6;追っ手が迫る)

しばらく西山の麓にある京屋敷に住んでいたとされる惣三郎ですが
その後、追っ手を逃れる為、
ここから畝(うね)伝いに逃げたと伝わっています。

惣三郎は山を滑り降り小谷(こだに)川に出て川を下ります。

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そして沢を登って行ったとされています。


しばらく登ると小さな滝を見つけます。


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その滝の横には大岩があり、その下に穴を見つけ
そこに身を隠していたと伝わっています。

山奥で道は険しく隠れるのには
打って付けの場所だったのでしょう。

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ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋



掲載:2021.1.2





惣三さま物語り(その5;西山へ逃亡)

備中町西山へ逃げて来た惣三郎が門を叩いたのは
赤木家であったとされています。

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赤木家は鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)以降、
備中の国、川上郡穴田(あなだ)郷(現在の高梁市宇治町穴田)で
地頭を務めていた赤木氏の流れをくむ家系です。

備中町史によれば赤木家は
享禄年間(きょうろくねんかん)(1528年から1531年までの期間)
以前に西山に移り享禄元年(1528年)、
菩提寺として長松寺を建立したとされています。

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また西山には山城、西山城があり
代々、城主として赤木家が務め
その後、江戸時代には庄屋を務めていたとされています。

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西山の地で惣三郎が最初に訪れたとされる赤木家では
今でも裏山に惣三郎を祀る祠が建っています。

元々は赤木家で惣三大権現を神社として祀っていたものですが
昭和29年に火災で焼失し、現在は祠を建てて祀っています。

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赤木家の子孫、赤木平八郞氏の談話・・・

私の方の家が西山という地に入った
最初の家じゃないかと思っております。
ちょうどその当時の私方の家の当主(赤木助兵衛)
というのが初代の庄屋さんであり
また長松寺の開基壇頭ということで
庵(いおり)を持っていた訳であります。
その庵(いおり)というのは
赤木一族が宇治(高梁市)から攻めてきた時に
西山城という城を攻めて来た訳なんですけど、
その西山城の下に庵(いおり)をこしらえたことで
開山さん(最初にお寺をこしらえた人)にしたと思うんですけど、
そこに家があったと思うんですけど
その家に”手引き”したのではないかという言い伝え等があります。



赤木家は惣三郎が二条家の家臣ということで手厚く迎入れ
西山の麓にある別棟に住まわせたと伝えられています。

現在その場所には惣三郎を祀る祠と
墓のようなものが建っています。

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この地は惣三郎が住んでいたからか
いつしか「京屋敷」と呼ばれるようになり
現在でも地元ではそう呼ばれるようになっています。
祠の横には惣三郎の墓らしきものが建てられています。

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ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋



  • 京屋敷、おおよその場所・・・

麓の防火水槽(←県道313=大野部備中線沿い)の脇を目安に南方向に藪の中を50~100mほど降りたあたりにあります。
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余談になりますが
この「京屋敷(きょうやしき)」以外にも
小字名が「京免(きょうめん)」とよばれる場所が西山にはあります。
人から聞いた話しでは「京(京都)」から年貢などを免じてもらった土地...
ゆえに「京免(きょうめん)」と名前が付いたとの説があることを聞いたことがあります。

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それから、興味深い話しとして・・・
この画像の青色で囲った部分は哲西町下野部(しものべ)と呼ばれる地域です。
つまり、二条家の岡山拠点となっていた地域です。
また、赤色で小さく丸を記した場所は「ロン山(ろんざん)」と呼ばれている山です。
たまたま丸印の大きさが小さかっただけでけっこう大きな山です。
正式には長松寺山です。
地図にもこの「ロン山(ろんざん)」という名称は記されていません。
実はこの「ロン山(ろんざん)」ですが
人によれば、「ロン山(ろんざん)」⇒「論山(ろんざん)」ではなかろうか?という説もあります。

つまり、これらをまとめますと、
下野部を拠点にして年貢の取りまとめの仕事をしていた
京都の二条家はおそらく備中町の一部も管轄していたのでは?
(←あくまでも、私の想像ですが)

その時に「京免(きょうめん)」と呼ばれる土地も”生まれ”たり、、、、
そんなことを話し合っていたのが
「論山(ろんざん)」という場所だったという!?・・・。
実は「論山(ろんざん)」の由来は
別な場所を論じたという有力な説があるので、
そのあたりはまた別の機会にご紹介します。

ちなみに前述の「京免」ですが
哲西町下野部(二条家)から西山に向かっての途中にあり、
「ロン山(ろんざん)」の麓あたりに位置します。

長々となりましたが、
地域の歴史って奥が深いのを実感しております



掲載:2020.12.27





惣三さま物語り(その4;追われる身に)

惣三郎は正義感の溢れる人なので地元のお百姓さんの味方をして
年貢を幾らかでも少なくしてあげるような話しを
京都のほうで役人同士でしている時、
お百姓さんへの正義感から相手の役人と喧嘩をして、
つい切りつけて殺してしまった。

追われる身になった惣三郎は、よそへ行かずに
はじめから二条殿(新見市哲西町下野部)を目当てに
逃げ戻って来たのかもしれません。

下野部の鹿室(かむろ)さん宅の裏山には
誰が建てたかは不明ですが惣三郎を祀る祠があるそうです。

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村人の為に追われる身となった惣三郎を
下野部の人たちはかくまっていたのかもしれません。

その後、追っ手が迫って来たのか
惣三郎は隣接する高梁市備中町西山に逃げたと伝わっています。

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山を越え、備中町西山へ逃げて来た惣三郎は
当時、庄屋をしていた赤木家の門を叩いたと伝わっています。

ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋


掲載:2020.12.19





惣三さま物語り(その3;人物像)

惣三(そうざ)さまこと、惣三郎(そうざぶろう)とは
どんな人物だったのか。。。

哲西町下野部には、昔、朝廷に仕える京都の公家、
二条家の荘園領地でした。

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※哲西町下野部

二条家とは、藤原氏直系の公家で
その中の最高位と言われる5摂家のひとつ。
下野部地内の二条山には二条殿跡と呼ばれる屋敷跡が残っています。
この屋敷跡は新見市指定重要文化財に指定されています。(昭和53年9月11日指定)

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※下野部地内の二条山の全景

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※二条殿跡(屋敷跡)がある二条山

山中には屋敷が建っていたと思われる郭(くるわ)や
敵の侵入に備えた急斜面の防護設備など
山城のような跡も見られるそうです。

頂上には山城で言う本丸のような跡もあり、
そこには小さな祠があります。

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※山城に祀られている小さな祠

この祠は二条さんと呼ばれ元弘2年から、
ここで4年間生活したと伝えられる
二条為明(1295~1364)を祀ったものと言われています。

二条氏は和歌の達人で宮中の和歌の宴に召されることが多かったため
北条氏を滅ぼそうと企む後醍醐天皇の仲間とみられ
後醍醐天皇が隠岐へ流される際に二条氏も
土佐へ島流しとなったそうです。
二条家を拠点にこの地の政治を行っていたのでしょう。

哲西地域に残る伝承によると、
その時、下野部にあった育野城の城主、
斉藤景宗を頼り下野部へ移ったとされています。
その際、景宗が仮殿を建て二条為明を住まわせたと言われ
それが二条殿跡と伝わっております。

二条為明がこの地に来たというのはあくまで伝承ですが
哲西史(角川日本地名大辞典-岡山県)によると
慶長四年(1599年)毛利輝元が検地を行った際、
大野部村から下大野部村を分村し二条家に献上した書かれ、
室町時代はこの地が確かに二条家の領地であったことがわかります。

二条家跡の脇には二条家の役人たちのものと思われる
五輪塔が数多く残っています。
二条殿を拠点に後の政治を行っていたのでしょう。
その二条殿の家臣として年貢の取り立てなど
この地で働いていたとされるのが惣三郎です。

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※二条家跡の脇に残っている数多くの五輪塔

ふるさと歴史物語~惣三さんをたずねて~より抜粋


掲載:2020.11.29





惣三さま物語り(その2;概要)

西山の長松寺に祀ってある「惣三(そうざ)さま」。
正しくは「惣三郎(そうざぶろう)」と言われます。
愛着と尊厳の念を以て惣三(そうざ)さまと
呼ばれるようになったのでしょう。

今回は、惣三さまとは
如何なる人物だったのかを簡単にご紹介します。

下大野部村が二条家の領地であったころ。
京都でケンカした惣三郎は、追われて西山に逃れ、
立木(地名)の岩穴に隠れ住んでいた。
地元の人が食事を与えてかくまったが、
ついに捕えられ処刑された。
その洞窟は大きな平たい石の下で、奥行き五mくらいある。
ついに捕えられ処刑された。
長松寺の墓碑に「青峯護山庵主惣三郎」とある。
戦前、戦中は徴兵除け、武運長久を祈願した。
祈願のとき、女装して参ると霊験あらたかであるとされた。

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(著書『備中町再発見』でも知られる高見 寿先生のTwitterより拝借)



下大野部(しもおおのべ)村とは現在の新見市哲西町大野部。
その前は岡山県哲多郡に属し、
哲多郡下大野部村(のちに大野部村に合併)。。。


立木(たちき)の岩穴とはこちら ↓です。
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※画像高見 寿先生より提供

この岩穴はもちろん現存していますが、
幾度となる台風や大雨、洪水により
周辺の石や土砂が流れ込んで岩穴の大部分が埋まってしまい
その全景を見ることは出来ませんが
それでも当時の様子を想像するには充分な状況です。


そして長松寺の墓碑「青峯護山庵主惣三郎」とはこちら ↓
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掲載:2020.9.1





惣三さま物語り(その1;プロローグ)

西山には惣三(そうざ)さまと呼ばれる人物を祀っている場所があります。

そのうちのひとつが長松寺(ちょうしょうじ)です。
長松寺境内の西側には立派な拝殿と
それをしっかりとお守りするように建物(鎮守殿)も建っています。

そもそも、惣三さまとは如何なる人物だったのか。
西山にどのような影響を与えた人物だったのかを
少しずつご紹介して参ります。

鎮守殿には惣三さまに関することを書かれた看板もあります。


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掲載:2020.8.17





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