長松寺の歴史

長松寺の歴史(その4)

かつては禅寺だった・・・

長松寺は禅寺だったということを
あらためて知ることが出来るものが境内にあります。

それは参門に掛っている木製の表札に
そのことをうかがわせることがあります。

長松寺の参門はこちらです・・・

20210712_171428_R.jpg

この表札の裏を確認するとこんな感じになっています。

20210804_140524_R.jpg

平成元年秋分の日に
第29世の田辺哲崖和尚の時代に作られた表札で
当時、責任役員だった芳賀正夫氏によって
時間をかけて彫った毛筆書体の文字は
とても重厚感さえ感じられるものとなっています。
そう!文字は彫刻刀で1mmぐらい彫り込んで
それから墨を入れてあるのです。


この表札、つまり約33年が経っているので
風雨と太陽の紫外線によって
文字もかなり色あせていて劣化が進んでいました。

せっかくなので長松寺の歴史を伝えるこの表札を維持したく
看板屋さんにリフレッシュをお願いしてみました。

看板屋さんいわく
「意外と木が腐りかけていたので、ピカピカまでは磨けていません。
クリアの防腐剤を塗ってあります。」とのことでした。

表面を削るのではなくて薄く研磨して
もう一度、墨を入れ直すという手法でしょうか。。。

そして、出来上がりはこんな感じになりました。
20210813001.jpg

この筆文字ですが、市村 榮(いちむら さかえ)先生の書籍
『千六百年の西山高原の里の歴史と物語』では次のように賞賛されています。

この表札こそ長松禅寺の数少ない寺宝のひとつであり
その文字の達筆さには驚くべき素晴らしさがあるのです。

更に不詳ワタクシが補足するとすれば
禅宗の始祖である達磨大師のイメージ画を見ると
ほとんどが筆によって描かれており
その達磨大師のイメージ画を想像させるような
結びつきも感じられる表札の筆文字である
と言っても過言ではないと思います。
もう一度、上の表札を見て下さい。
四文字のひとつひとつが丸みを持たせた
達磨様のイメージそのものじゃないでしょうか。
111003_4.jpg
※達磨大師のイメージ画(ネットより拝借)



掲載:2021.10.31





長松寺の歴史(その3)

長松寺の由緒について

数年前、長松寺の前住職、義範孝道和尚...こと、河村孝道先生から
この下のメモ書きをいただいたことがあります。
※出所は不明

2021041701 (2)

これは長松寺を開山された
「禅庵繁興(ぜんあんはんこう)さま」について書かれたものですが
長松寺の由緒についても触れられており貴重なものです。

実はこれをいただいた時に河村先生から直々に解釈を解かれたのです。
失礼ながらその時、音声録音を撮っていたので
文字起こしをしてみました。

まず最初に、このメモ書きを読みやすいように文字起こししてみました。

開山

天文十辛丑年十月八日(一五四一)示寂

師は洞松寺の茂林芝繁秀峰繁俊に薫陶せられ 宗門の堂奥に通ず

去って矢掛の龍王山の麓に廬を結び 一夜白山権現の霊亀に乗り来るを夢み 鎮主壇を亀の形に築き法の久住を祈る これ今の龍王山瑞雲寺である

享禄元年(一五二八)八月西山に背後に亀形の山の地を相し青亀山長松寺を創立された

師は更に洞松寺に帰って十五世に輪住され 又 石州の永明寺に臨み 更に天文五年(一五三六)七月に帰って長松寺に住され 天文十年(一五四一)に示寂された

師の開山された寺は長松寺、瑞雲寺の外、上合寺、英常寺、威徳寺(高梁)、等がある

尚 永正十二年(一五一五)九月十三日 後柏原天皇より当時師が住んで居た椿原の黄梅山見性寺に対し勅状が下り禅師を賜った


そしてそれを河村先生が解釈されたものが こちらです。
(部分的に私も補足しております)

開山

天文十年(辛丑=かのとうし=1541年)十月八日(1541年)、
示寂師(しじゃくし)は
洞松寺(とうしょうじ)の茂林芝繁(もりん-しはん)の
称号をもつ秀峰繁俊(しゅうほう はんしゅん)に
徳の力で人を感化し、すぐれた人格で教え育て上げられ
宗門の堂奥に通じる境地に至る。

秀峰繁俊(しゅうほう はんしゅん);
戦国時代の僧。
曹洞(そうとう)宗。石見(いわみ)(島根県)津和野城主吉見成頼の子。
幼時に出家し,備中(びっちゅう)(岡山県)洞松寺の茂林芝繁(もりん-しはん)の法をつぐ。
一族の吉見頼弘が建立した津和野の永明(ようめい)寺の開山(かいさん)となる。
晩年は大定院をたてて退隠。永正(えいしょう)5年10月3日死去。

矢掛の龍王山の麓に庵を結ばれた(この段階ではまだ正式なお寺ではない)
ある夜、白山妙理大権現(はくさんみょうりだいごんげん)→長松寺の本堂で言えば本尊さまの両脇に像があるがその右側の像である
道元禅師に関わる者。
20110814_R.jpg
※丸で囲んだ像が白山妙理大権現です。
別名「招宝大権修利菩薩(しょうほうだいごんげんぼさつ)」とのことです。
ちなみに左側にも像を祀っていますが達磨大師(だるまだいし)=菩提達磨(ぼだいだるま)様です。

その権現さんの霊気に乗っ取って
不思議な亀に乗って来られたのを夢に見て
そこで鎮主壇(ちんじゅだん)を祀る壇を亀の形にして築いて
鶴は千年亀は万年というほど永久に続くことを祈って
亀の形の鎮主壇を作ったという。

今の龍王山瑞雲寺(ずいうんじ)という所である。

享禄元年八月(1528年)、
西山の背後に亀形の山の地があるということをご覧になって
そこで青亀山(せいきざん)長松寺を始めた(建立された)。

創立された師は
本寺の洞松寺(とうしょうじ=岡山県小田郡矢掛町横谷)に帰って
洞松寺の15世として輪住(りんじゅう)された。
地方の輪住というのは、その寺で永住出来ないので
優れた人たちが1年交代とか2年交代をしながら
末寺(まつじ)の人から代わっていきながら本寺に住むのです。

今の永平寺も曹洞宗大本山總持寺もそうですが
一年交替で末寺のほうから優れた者から選ばれて代わっていくのですね。
その代わり代わる度に
何か本山に形から何から本山として相応しいものを
残していかないといけないということがあります。
例えば参門(山道の両脇の柱)を寄贈するとか大仏典を寄贈するとか
そのようにして臨住されて、
あらためて石州(島根県)の永明寺(えいみょうじ)に行かれ
天文五年七月(1536年)に長松寺に帰って住持された。

天文十年(1541年)にお亡くなりになられた。

禅庵繁興(ぜんあんはんこう)さま について...
ご開山さま(←お寺を作られた方を指す)が
開山された寺は長松寺のほかに瑞雲寺があり
そのほかに上合寺(じょうごうじ)、英常寺(えいじょうじ)、
威徳寺(いとくじ=高梁市)などがある。

尚、永正十二年九月十三日(1515年)、後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)より
その当時住んでおられた椿原(つばきはら)(矢掛町)にある黄梅山(こうばいさん)見性寺 (けんしょうじ=洞松寺の末寺)に対して
命令がおりて来たので禅師号という天皇からの称号をうけ賜った。



掲載:2021.9.19





長松寺の歴史(その2)

長松寺の名称は「青亀山 長松寺」と表記し
読み方は「せいきざん ちょうしょうじ」と読みます。

お寺の場合、ほとんどがお寺の名前の上に漢字3文字ぐらいで
山号(さんごう)と呼ばれる冠(かんむり)的な称号が付けられています。

漢字3文字と申しましたが
中には「香山(こうざん)」というように2文字や
「御都繖山(ぎょとさんざん)」のように4文字もあるようです。
でも圧倒的に3文字が多いようです。

さて、長松寺の場合は前述のように「青亀山(せいきざん)」であります。

その起源となるものはWikipediaにも書きましたが
当寺の裏山はヒノキで覆われて一年を通して青々としていて、
更にその山が亀の甲羅のような形に見えることから
「青亀山」という山号が付けられたと言い伝えられています。

長松寺は大きな山の麓あたりに位置し
その大きな山は「長松寺山」と呼ばれます。

実際に長松寺山を見ると確かにヒノキで覆われていて
なんと頂上までがヒノキがあり
残念ながらその頂上からは周囲を見渡すことは出来ません。

今から7年ほど前に撮ったものです。

20141105.JPG
※あともう少しで頂上というタイミングです

2014110502.JPG
ヒノキの隙間から差し込む太陽の光を捉えると神秘的なものになりました


長松寺を遠くから撮ったものです。
2021091401.JPG
※著書『備中町再発見』の執筆者、高見 寿先生より拝借


お知らせ(予告):

実は現在、”長編連載記事”を執筆中です。

今のところ、読みやすいように細分化しながら
約15回前後の掲載予定です。

過去、西山にとってはとても重要な歴史的事実であり事件がありました。
そのことはネットを調べても詳しく書いてあるものはありません。

ならばということで
私がそのドキュメンタリーを現在まとめているところであります。
タイトルを見てピン!とくる方は
まあまあ年配の方かもわかりませんね。

もうしばらくお待ち下さいませ。

タイトル;(仮)昭和の西山開発問題



掲載:2021.9.14





長松寺の歴史(その1)

西山の吉家には長松寺というお寺があります。

とても古い歴史のあるお寺ですが
インターネットの百科事典Wikipediaに
その長松寺に関する記述が無かったので
不詳、ワタクシが想いを馳せて書き上げて掲載したのは
このHPでもお伝えしたとおりです。

※画像をクリック(タップ)で拡大します~^^
2021080801.jpg

そのページにも記述しましたがあらためて
このHPにも記載して紹介したいと思います。
かなり、”重い”内容になりますがご辛抱下さいませ。

長松寺 (高梁市)

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※桜が満開時の春はとても見栄えのよい長松寺です。
撮影;2020年4月16日

  • 概要;
    長松寺(ちょうしょうじ)は、岡山県高梁市備中町西山にある曹洞宗の寺院で大本山は福井県の永平寺、本寺は洞松寺である。山号を青亀山(せいきざん)と称し、本尊は釈迦如来。長松寺の正式な名称は「長松禅寺(ちょうしょうぜんじ)」であるが言いやすく語呂が良いようにと、いつとはなく「禅」を省略して呼ぶようになった。
  • 歴史;
    室町時代後期、享禄元年(1528年)開基檀頭、赤木弾正平泰忠(あかぎだんしょうたいらやすただ)が建立し天文 (元号)5年(1536年)繁興禅師(はんこうぜんじ)(禅庵繁興)によって開山されたとされる。 当寺の裏山はヒノキで覆われて一年を通して青々としていて、更にその山が亀の甲羅のような形に見えることから「青亀山」という山号が付けられたと言い伝えられている。
    天保12年、明治21年と二度の大火災に罹災し、現在の建物はその後に建てられたものであり、28世 石定和尚が開山堂を、29世 哲崖和尚は自ら多額の私財を投じ更には檀家一同が一体となり長年に亘って復興と護持にあたり現在の姿を構築した。

※Wikipedia「長松寺 (高梁市)」より抜粋しました


この記事の中で
開基檀頭、赤木弾正平泰忠(あかぎだんしょうたいらやすただ)が建立し・・・
とありますが、この赤木氏は西山城(別名、戸構城(とがまえじょう)を建立した人物でもあります。
戸構城は廃城となり、後に城跡へ「大己貴神社」という神社が建立されました。。。

この赤木氏については以前の記事「#09.惣三さま物語り(その5;西山へ逃亡)」にも記述しましたので、もう一度、復習の意味でこちら ↓ に転載したいと思います。


赤木家は鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)以降、
備中の国、川上郡穴田(あなだ)郷(現在の高梁市宇治町穴田)で
地頭を務めていた赤木氏の流れをくむ家系です。

備中町史によれば赤木家は
享禄年間(きょうろくねんかん)(1528年から1531年までの期間)
以前に西山に移り享禄元年(1528年)、
菩提寺として長松寺を建立したとされています。

また西山には山城、西山城があり
代々、城主として赤木家が務め
その後、江戸時代には庄屋を務めていたとされています。
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赤木家の子孫、赤木平八郞氏の談話・・・

私の方の家が西山という地に入った
最初の家じゃないかと思っております。
ちょうどその当時の私方の家の当主(赤木助兵衛)
というのが初代の庄屋さんであり
また長松寺の開基壇頭ということで
庵(いおり)を持っていた訳であります。
その庵(いおり)というのは
赤木一族が宇治(高梁市)から攻めてきた時に
西山城という城を攻めて来た訳なんですけど、
その西山城の下に庵(いおり)をこしらえたことで
開山さん(最初にお寺をこしらえた人)にしたと思うんですけど、
そこに家があったと思うんです。


開基が享禄元年(1528年)ということなので
なんと7年後には「開基500周年」を迎えるということになります。


  • 注釈(Wikipediaより);
    • 開基とは
      寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、ないし世俗在家の実力者(大檀那)を指す語である。
    • 開山とは
      寺院を創始することを指す仏教用語である。仏道修行の場として閑静な地が望ましいことから、しばしば山間に道場や寺院が建立され、山号を有したことに由来する。転じて寺院を開創した僧侶(すなわち初代住持職)を指す語ともなる。


      掲載:2021.9.3








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